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2019-01-09

二つのレイヤーの融合・統合

ティーハウス

 

最近、文章を書くということがなかなかできませんでした。

 

それは・・・時間がないというより、
もっと根源的な、「何を書きたいのかがわからない」
もしくは、「何が真実なのかがわからない」という面が
たぶんにありました。

 

そして、それは今でもすっかりクリアになったとか
そういうことでもなく、

また、すべてがクリアになることもないのではないか、
そんなある意味の諦めができたことと、

道のりが変化していないようで、こうして書けるということは、
より俯瞰してみることが出来るようになったということでも
あるかと。

 

ですので、「いつかすっかりわかったら書こう!」

これを待っていては、そのときは永遠に来ないだろうと思い、
中途半端なものかもしれないですが、
それもまた、そのときの自分の真実には一番近いものであり、
それがずっと変わらないものであるということもないのだと、
少し吹っ切れたのです。

 

「真実」と言うには、どんなことがあっても変わらないこと。
そうでなくては!と、どこかで思うところがあるんですよね。

 

けれど、「変化だけが変化しないもの」。

 

変化という、変わってゆけること、イコール、生命が燃えているということ。

それを絶対変わらない型に入れたい、それを見つけたいというのも、
きっとピントの外れたことなのでしょう。

 

ですから、こうして書く気になって、
でも、書くことが整合性がなかったり、矛盾していても良いのだと
最初に大きく考えています。

そしてそれはシンプルに、今の「旬」の捉え方であったり、
変化してゆくもの。

 

空の雲が一瞬で形を変えて、流れることをとめない。
そしてその奥に、エレメントとして働く、何か根源の
世界を司る力がある。

水があり、空気があり、そしてそれが大気で循環して、
雲となったり雨となって地面に落ちたり、
さまざまな形と変幻に変化しながら、

それでも、その形のときはそれはそれ。
それなりの物語を汲むことも、出来るでしょう。

 

私はそんな柔軟で有機的で、お互いをお互いが組み込み、
影響し合い、全体で成っているものを、
ひとつのイメージ、ひとつの概念で切り取りたかったんですよね。

 

そしてそれはなぜかというと、

「人はなぜ生きるのか?」という問いの答えを見つけたいから。

歩くことがそのまま、問いに答えることと思いつつも、
それでもなぜか、やはり頭でも知りたいと、日常を普通に生きているときも、
その意識の水面下でいつも思っている。

 

最近・・・思っていた、主に二つのこと。

非二元などともいわれる、「全体性」「ワンネス」。
そして「起きることが起きていて、人(個人として現れている存在)は、
それをコントロールできない。」というもの。

 

共鳴するんですよね~、なぜか、どこかが。

「これは、そうだ、そうだ!」と思いつつ、

 

けれど、日常を生きる上で、「自分」という意識があり、
自分をどうしたい、自分の欲望をどうしたい、
あれが好き、これが嫌い、
過去がどうだった、未来が不安・・・

 

いろいろあるんですよね、思いとして。
それがもうひとつのこと。

 

そういう思いの中にいる、分かれた人として思う自分からは、

「どうしたら、本当の私に還れるだろう?」
「どうしたら、本来のすべてを開いて生きてゆけるだろう?」と
思ってしまいます。

 

そしてお仕事でも、その自分というフィルターで良いと思うものを、
提供していたりします。

実際、神聖なエネルギーをそれぞれ感じるとき、
至福を感じ、本当の自分としての喜びに満たされます。

 

「全体」ということを、エネルギーや、かすかな何かでは知覚しつつ、

けれど、生活に戻れば、「このエネルギーは嫌だな」
「この場は嫌だな」など、
判断をしながら、ある意味「俗世」まっただ中。

 

その「ゆれ」を、どう捉えていいのかわからず、
やはり答えを探したくなる自分がいるのです。

 

けれど最近、これで良しと思ったのは、
その、さまざまがシェードだとして、
そのシェードがあって、いろいろ経験していることこそ、「創造」だし、
そのままでOKなのかなと。

 

ぶれない、たとえば「白」だけの世界を求めて、
それ以外の「黒」が嫌いと思っていても、
実際世界は、白も黒も含む、さまざまなシェードの世界。

それが個性を生み、個人を生み、世界を生み、彩りとなっている。

 

それは矛盾で解決すべきものではなく、
それはそれでOKなのだなぁと。

 

こういうことを書いていると、
「当たり前のことを書いているよね。」といつも思います。

 

けれど・・・体験を通して、頭ではなく、ハートを通して
わかる、あるいはOKと思えるということこそ、
魂が肉体とコラボして、味わってみたい、探検してみたいという
もっともコアにあるものなのでしょう。

 

光と闇

男と女

上と下

右と左

美と醜

善と悪

 

どうしても、それが知覚として上ってくるとしても、
その知覚こそが、ひとつのシェードをしっかり味わう機会なのであり、
それが何色でも、どんな明彩でも、
それこそが、全体のひとつであり、
悪いことではないのだということ。

 

個別と全体は切り離すことのできないもので、
いつもお互いを循環し、汲みあい、
満たしあい、豊かにし合っている。

 

この世に生きている私たちも、世界で起きているさまざまなことも、
判断で見ようと思えば、いつもそれは簡単にできてしまうけれど、

判断がありつつ、
その、すぐに削いでしまいたくなるもの、出来事、さまざま、
それすらも、なんらかの貢献をもたらす、全体のひとつ。

 

それを、ただありがたがって、頭を通して受け入れるというのではなく、
その葛藤含め、人間存在が生きているということは、

さまざま種類の異なるエネルギーに囲まれ、
それをどう捉え活かし、
全体としてどんな絵画を、自分という生命に託された者は
創るのか?ということ。

 

そういう意味では、まったく個人的なものなんですよね、
この世界を味わうということは。。。

 

そして、その一人一人がさまざまな関係性で出会い、
お互いの人生に影響を及ぼしながら、
大きく実は、同じ目的(究極の創造)で
生かされている同志なのだと思えば、

いろんなことのある人生、日常にも、
ただすっと消えてゆくだけではなく、なにかほのかな ぬくもりを
感じたりするなぁと思ったりします。

それらはとても小さなことばかりなのですけれど。

 

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