ゆるみたい、けれどそれが怖い理由
ゆるむことを望む気持ち・・・
私たちは気持ちよく ゆるめることを求めます。
くつろげる環境、くつろげる関係・・・
そこにあるのは、ありのままで、ただリラックスして
その在り方が認められていること、
それが可能な時の喜びです。
「好きな人とだけ、好きなことをして、好きな場所で暮らしたい!」
これは私たちの究極の望みの一つではないでしょうか。
その場所、状況に居られるように、そのための努力として
きついこともしなくてはならない場合も、
「これを仕上げたら、きっとのんびりと自分らしく在れる状況が訪れる」
こんなことを心に思いながら、モチベーションにしたりして、
乗り切ろうとしますね。
その、気持ちよく「ゆるむ」ということへの切望のようなもの。
それが身の回りに心地よいもの、人を置きたいという望みとして
いろいろ求めさせたり、希望になったり、
あるいはスピリチュアルな分野の探求も、究極、あるステージまでは
この「心地よくありたい」「ゆるみたい」という、
それが動機だったりすると思います。
生きていることがなんだか苦しくて、頑張っていても
いろんなことがしっくり来ない。
居場所もない気がするし、自分という存在への不確かさが消えない。
この、漠とした不安や居心地の悪さを解消したくて、いろいろ試してみる。
人に依り、その探求が向かう先、ターゲット、表現は違うかもしれないけれど、
心のその、「もうちょっとしっくり来るもの」を見つけたいという思いは、
きっと同じで、
それを見つけた暁には、きっと幸せな気持ちでずっと暮らせるだろう。
そんな風に思うと思うのです。
それなのに、「ゆるむのが怖い」という小さな声
先日、ある非二元のティーチャーさんのオンラインのお話会に参加して、
みなさんと短く先生のリードで瞑想をしました。
その時、「ゆるむ」とか「ゆるまない」とか「解放」とか
特に考えていたわけでもないのに、
普段は私の無意識にもぐりこんでいる
「ゆるむのが怖い」というのがふと上ってきました。
「えっ?」と思ったんです、その声、気持ちはすごくさりげないものだったのですが。
だって・・・「ゆるみたい」から、その日もわざわざ時間を使って参加していたわけですし、
そんな恐れがあるなんて、実は気づいていませんでした。
ふっともれた本音みたいな、かすかな小さな声だったんです。
自我が隠している本音としがみつき
そしてそこから少し考えていたら、
確かに「ゆるみたくない」という気持ち、
そうなったら(自我の)コントロールが効かないことが起きるに違いないという
恐れをもっているのを感じました、私の小さなセルフ、自我が。
自我はとても巧妙で、こういう本音をいつもは隠しているのだなと思い至り、
なんでもないことのようで、実は私にとっては大きな発見の一つでした。
真実を見つけたい、近づきたい、それと一緒に居たい。
そう願って生きてきたと思っていたけれど、
なんと、そう願う自分の心の奥には「ゆるみたくない」という、
真実よりも、自分がコントロールできる感覚、そこからの一時の安心感。
それにしがみついている姿が垣間見えたんです。
願いとそれに反するような反対の極へと引っ張る抵抗。
こういうこと、綱引きが、常に自分の内側で起きているのかと、
ガクッとしながら、でも、見えたことに新鮮なものを感じました。
それほど「当たり前の」ことが、巧妙に隠されていたことに驚きながら。
それだから「無意識」というのだなと思いました。
自我がより大きなものへ譲る時
そしてきっとこれは、私だけの恐れではなくて、
人類に共通する恐れなのではないかなと思います。
コントロールして、ジャッジして、自分が采配を振るっていないと
この世でちゃんと生きてゆけないという思い込みを持っている自我。
もちろん自我は悪いばかりではなくて、
この世で体を持って生きる上での、この肉体世界でのルールを守り、
その制限の中で、自我は自我なりの最大の努力で自分自身を幸せにしようと思い、
いろいろやってくれているわけですね。
時間を守ること、人に迷惑をかけないこと、自分を律すること・・・
これらは、私たちが獣性を上手に統合する過程では、大切ですよね。
すべてが自由で、私たちのベストが引き出されるという、
そういうレベルにはまだない時には、必要なことでもあったと思います。
けれど、外側とか他の権威のある人からとか、
律せられるということが、どんどん不要になって行く今の波動の変容期にあって、
自我が良かれと作り築く枠の中だけで生きることが
かなり窮屈になっていて、私たちは「ゆるむ」ことを選択していると思います。
そしてその奥にある、ゆるむことへの恐れも
自分自身が認め抱きしめ、その恐れで守ろうとしてくれる健気さに感謝しつつも、
自分で選択をして「私はゆるんで良い」と、決めるのはやはり自分だなと思うのです。
波動としての自分は、様々と影響し合う
先日、Gongという、銅鑼の同じ仲間のような、鳴らしてその音で
浄化の波動を受け取ったり、活性化を受け取ったりできる、音でのレメディ。
それが奏でられる機会を体験してきました。
音浴とも言え、強烈なその波動と一緒にたゆたい、
それぞれ(音と人)がただ波として出会い、調和し、そしてお互いに干渉し、
今表現できる一番美しい波動、波をつくる、
そんな機会と感じました。
そしてその後もしばらくその余波で、波動で動かされた自分自身の様々なものが
微妙なこだまをまだ続けていて、それが思考の型や蓄えた感情や
エネルギー状態に影響を及ぼし続けていて、
何らかの新しいものを求めているように思いました。
小さな、古いものが落とされ、新しいものが入って来た刷新の機会。
小さな気づきだけれど、大きなことを内包している
それがあって、まだ揺れている時に非二元のお話会に参加したので、
その余波があって起きたことなんだろうと思います。
大きな何かが起こったわけではないけれど、
でもある意味では大きなこと。
自我を束ねていた一部がゆるんで、コントロールいのちの自我が
より大きなものへ委ね、降参した小さな部分。
普段からゆるめるものに目がなくて、
日常でのお花とかアロマとか自然の中で過ごす時間とか、
ペットとの和みやティータイムまで、
考えつく ゆるめるものを、いっぱい活用して求めていると思った私の心の中に、
なんと、それに対する抵抗があったとは・・・
本当に驚いてしまいましたという、小さな気づきだったんです。
自分の内なるシステムが変化している時
そのプロセスが自然に進んでいたのだとしたら、
それは同時に、内と外という区分けの感覚がゆるみ、
外と見える風景なり人なり体験を、より自分との一体感で受けとめられる。
それも起きていて、
そうするといろんなものの定義も微妙に変化して、
それに伴って、自分が築いている知覚や判断の枠組み、システムも変化の渦中で、
地味なようでいて、実は大きな渦のようなものが生まれているように感じます。
そしてこれは私だけというのではなくて、
今生きている皆に起きていることなんだろうなと思います。
波動レベルで変化して来ていて、自分が思うよりも大きな変化が進行中。
そういうときなのだと思います。
変化の渦中は自分に優しく!が基本
そういう時は、必要なら自分にたっぷり時間をあげるとか、体を休ませるとか、
マインドの空きを意識的に作るとか必要だと思います。
コロナとして外に見えるものも大きな変化をもたらし、
内側でも変化が熟成中で、この中を過ごしてゆく際には、
自分に優しくをやはり心がけて過ごしたいですね!