人に理解されるというパワー
社会的存在としての人間・・・
人はたった一人で生きているわけではなく、
常に社会の風、他者の目を受けながら暮らしています。
また、意識していなくても集合意識との交流が常に起こって影響し合っています。
それをどう扱うのかがその人の個性でもあり、能力でもあります。
自分一人だけで好きなように自由に生きられたなら・・・
こんな風に思いながらも、でも他者という触れ合う相手を求めるのも人間です。
その両者間を揺れながら、私たちは常に自分にとってのベストな位置に立ちたいと
調整もし、時に戦いもし、努力もしています。
規定するもの、鎧を外した時にあるもの
そして心の鎧や集団の中で場所を保持しなければならないというプレッシャーから
解放された時、ふっとただ出て来るのは、
他者と優しく交流したいという心の願いです。
肉体を持つという制約からのサバイバル側面からの、時に必要になる諸々に目を向けながらも、
心はただ優しく溶け合うこと、優しく包まれることを願っています。
そしてその願いをもって生きるその小さな、けれど大きな願いのボタンを
押されたり、押したりという、他者との交流の中で
個性も属性も、そして性格も人生の来し方も違う相手と、偶然のように、
あるいは恩恵のように触れ合えた時、時間や空間というものは消えてゆきます。
そこで出会っているのは、心と心、魂と魂だからです。
肉体を持つという制限を抜けたところで交流ができた時、
私たちは自由を感じますし、優しさをそのまま感じ表現し合えます。
どこがどう違うとかではなく、お互いの同じ思いでただシンプルにつながれます。
時空を超えて出会えるのは心、魂を通して
今コロナなどの影響で、肉体を持っての出会い、ただちょっとおしゃべりをする、
顔を見ながら何気ない会話をしながらお互いの呼吸を感じ合うということを
同じ場でリアルに経験することが少なくなっています。
これは制限と感じることではありますが、ある意味、
肉体を持つ存在としての様々から解放されて行く、そのプロセスとして
体験しているのかもしれません。
目に見えるもの、目に見えないもの。
どちらが大切ということではなくて、両方に足をおいて暮らしているのが私たち。
今のある意味、フラジャイルな時、チャレンジに満ちた時、
どんなセッティングであっても、ありのままの自分をそのまま受け止めてもらえるという、
そのギフトはとっても大切な尊いものだと思います。
シンプルにジャッジメントなしに聞かれることでの恩恵
人はただ、忙しく回るマインドの目なしに、シンプルに聞かれた時、
そこにある痛みや苦しみや後悔などというものは、溶けてゆきます。
ただシンプルにそこに在り、聞かれ、そして聞くという在り方。
それだけで人は人を救うことができるのだと感じます。
知識やツールを蓄えることも大事ですが、その在り方が自分のものにできるかどうか。
それを一生かけて、いろんな関係を経験しながら、練るための機会を与えられているのが
私たちなのかなと思います。