「自分」という枠を広げること
「自分」ってそもそもなに?
「自分」というのが実際何を表しているのか、
そもそも「自分」の定義って何なのか?
これだけで、かなり言葉を通しては難しいトピックになります。
実際、「自分」が何なのかわからないし、
あるいはその定義も変化し続けているということもあります。
変化するということでは、
「自分」が何を好き、嫌いと思うことが変化するという
ある意味、マイナーチェンジもあれば、
そもそも何を「自分」とするか、あるいは「自分」はいないと気づくなど、
より根本的なところの変化も含みます。
常に「自分」をどう捉えるかは、変化のプロセスにあるということですね。
「自分」をどう捉えるかはいつも変化している
変化は人を落ち着かなくさせ不安を起こします。
人って慣れたものに安心する部分は確かにあり、
それを以って、エネルギーや知覚の省エネもしているわけですよね。
たとえば、毎日旅先の、何もわからないところを一つ一つ
新鮮な気持ちで全部まっさらから味わう。
これがずっと続くとすると、案外疲れが出て来ることも確かです。
ですので、どこかにつかまれて安心感を与えてくれるものを探して、
人はそれを与えてくれそうな、場や他の人やポジションや所有物や体験
それを求めてさまよいます。
けれど、いかに「不変」なものを求めようとも、
人生や生きることの中には不確かさがいつも共存していて、
いつまで自分の生があるのかわからないということから言っても、
不変からは逃れられないということですね。
ですので、それだからこそ不確かさの中に少しでも確かさを築きたい、
そんな願いだという風にも思えます。
「人生」も「自分」も常に変わるという前提にて
ということで言えば、根本的な変わらぬ何かを探すというより、
「変わるのだ」という前提の元で、
今はこれを選ぶ、違う時は別のものを選ぶかもしれないという、
ある意味変化を入れ込める人生観を発達させる方が、
人生と仲良くできるのかなとつらつらと思ったりもします。
それは実際やろうとすると、大きな試みになるのでしょうけれど、
小さな、今いるところ、今の経験の中でそれを培う方法はと
考えた時、
・外から運ばれてきたものに抵抗し過ぎない
これがあるのかなと思います。
人生の変化は招かなくても訪れる
外から来るものは、自分に合っている好きなものとは限らず、
かき乱したり好きじゃないという感情を起こさせるものかもしれません。
けれど、それは意味がなくただ人生に現れたのではなく、
表面の意識ではわからないレベルで、必要として訪れたのであれば、
それをまず認められること。
ある意味の人生を生きる上でのそんな謙虚さを
自分の人生を生きるという熱い思いとともに発達させることが、
成熟した人生への姿勢となるのかなと思います。
中庸を学ぶために
人生で学ぶことは、一つの極だけでは完成しないということです。
二つの極を知って初めて、中庸の在り方が学べる。
それをいろんなテーマについて、それぞれ学んでいる私たちではないかなと、
こんな風に思ったりします。