ドイツのあり方は、すでに「風の時代」先取り?!
外が不安定に見える時・・・
人の心って、安心できること、そして指針にできることを知らず探しているみたいですね。
かく言う私ももちろん、その一人です。
そしてその、どこかに掴まりたいという気持ちは、世情が不安定な時に強くなります。
外がピューピューの強風なら、せめて自分の小さな世界は安全であって欲しいし守りたい、
そう人は願うものだから。
そして今年コロナで、はじめは対岸の火事から、あれよあれよという間に全世界を巻き込んで、
自分事になったパンデミック。
根本的解決策も未だ見えず、ただ人は「密」を避けるとして、今まで当たり前に出来ていた
近しい人との交流制限まである状況。
ここドイツでも、現在第二のロックダウン真っ最中です。
旧市街に住む友人も、いつもは人が行き交う町が「まるでゴーストタウンのようだ」と嘆いて・・・。
「風の時代」という大きな変化
そして、その外の現実の状況と関連しているのかどうか、「風の時代がやってくる!」と、
スピリチュアル界はもちろん、巷で注目を浴びているテーマがあります。
それは期待と同時に、不安もまた入り混じっている、そんな風に感じられます。
「えっ? 風の時代ってなに?」
ここでの「風」はエレメントという、万物を構成する要素のひとつ。
地、水、火、風と、4つのエレメントを構成の土台とする、古代の知恵の概念。
ちょうど今、地から風のエレメントへと切り替わってゆく、その臨場感あふれる現場。
そこに私たちは立ち会っています。
というのも、それを象徴する天体のビッグイベントが、今年2020年12月22日に起こるから。
具体的には、木星と土星という天体が水瓶座という風のエレメントのサインで出会います。
約200年間「地」のエレメントで起き続けていた後の、風で迎える大きな変化。
「そんな遠くの天体のイベントが、一体地上の私に、なにか?」
この声は私の気持ちでもあるのですが、
古代からの英知として、「上なる如く、下また然り」という考え方があります。
この場合上は天体のイベント、下は私たち一人一人の現実世界。
思いがけない方法で、大きな刷新を図るこの宇宙。
そして大きなうねりは、個人ごとの都合などなぎ倒して起きるものを起こしてゆきます。
起きてゆく大きな変化の中で、身近なところで指針を得る
そして、その変化は人間のコントロール外なのだとしたら、思うことは
「じゃ、具体的にどうやって添ってゆけば、自分にとっても良いのだろう?」ということ。
指針を求めたい意識がどこかにあって、ふと、「あれ? ドイツの文化や暮らしのあれこれって、
風の時代をもしかして先取りしている?」と、浮かんだのでした。
「ドイツは風の時代、すでに先取りかも」は随分と乱暴な言い方ではあると思います。
人も文化も多面体かつ複合的ですからね。
ここではそれを踏まえながらも、単純化して書かせていただいています。
ドイツ暮らしで感じる「ドライさ」
私はドイツ暮らし20年。
ドイツ語力0でやってきました。
ドイツ語でのイエス、「Ja」もわからないレベルのゼロでした。
ですから、ドイツでの生活では肌で感覚的に感じるところから見ることも多かったです。
ドイツで暮らす際に女性は、空気の乾燥に悩まされます。
ドイツの乾燥した空気は、夏は過ごしやすい気候である半面、冬など気をつけないと、
ガクッと一冬でかなり老けるという、アンチエイジングの大敵です。
そして、その乾燥した空気、風同様、ドイツでの人間関係は、一般的に日本よりずっとドライです。
そしてしっかり自分軸です。
風の時代の、「一人一人違って良い、個性際立たせて好きなことをして、でもゆるくつながる」。
この感覚がすでにあると言っていいでしょうか。
自由の土台にあるもの
「自分のことは自分の責任です」
「自分が何者なのかちゃんと言葉で表現出来て、その上で人間関係は成り立ちます」
この必須条件が整った上での、
「嫌なことは嫌って言っていいです。誰とでも仲良くしようとしなくても良いです」
これが可能になります。
当たり前のことですが、気ままに生きればなんでもOKというのではないです。
自由を使えるためには、土台(自我やコミュニケーション能力)がしっかりしている必要がありますね。
ドイツ生活はその土台の上に、じゃ次に現実的にどこで折り合えるのか、
そして必要なら議論も辞さずの段階を踏んで、人との関係も、社会での居場所探しも為されます。
ドイツで身近に見る人たち
そして実際、ドイツ暮らしで見えて来る、人が織りなす風景ということですが、
たとえば、私の半径100m内にゲイカップルさんが二組住んでいて、一組は正式に結婚しています。
仲良くお互いに「私の夫が・・・」と話し、彼ららしく暮らしています。
結婚式のパーティーも自宅庭で開催し、ご近所含め招待して地域に溶け込み、
その姿勢においてフレンドリーさと心配りを欠かしません。
年に1、2回の近所の会食でも、彼らがたいてい音頭をとってくれ、手間も引き受けます。
根が社交的な人たちといえばそうですが、それでも彼らなりの努力はしていると言えます。
また、私のヨガの先生は大変魅力的な女性ですが、すでに成人されている息子さんを
未婚のまま、シングルマザーで育てました。
きっと言葉にしないいろんなことがあったのだろうとは思いますが、さらっと語る彼女。
そこに内側の芯の強さを感じました。
また、子供が生まれた後も結婚という制度に乗ることなく、けれどずっと仲良く
一緒に暮らすというご家族もあります。
形が大切なことではなく、その心の姿勢として、自由の甘さと厳しさと選択を受け入れて、
自分らしい尊厳を持ち人生を送っているかどうか。
そして人の多様性ある在り方も、受け入れられるかどうか。
それが問われるのも、風の時代じゃないのかなと、身近なドイツの、あるいはドイツ人の在り様から、
私にとっての当たり前も日々刷新しながらここで暮らしています。
ドイツのドライさと日本のウェットさ
とは言え、ドライな風の吹くドイツでの生活では、心も知らず乾燥してしまい、
日本の番組「深夜食堂」という、あったかでウェットな世界を見ると、「これ、これ!」と、
思いがけず涙が出たりもします。
そしてそこに、気づいていなかったパサついていた心を垣間見ます。
違うものを統合することで。。。
違うものが出会うということ。
そのすり合わせは易しいことばかりではありません。
けれど、その中で初めて見えて来る、今まで当たり前だったこと、そこにある尊さを
再発見する機会でもあります。
そういう意味では、コロナも同じなのかしらと思います。
今までの当たり前を覆しながら、何が大切なのかを深く問いかけ、
風の時代への切り替わりを先導するなにかでもあるのかもしれませんね。