「内面世界の個性」=どんな風に物事を眺める?
小さな気づきが時に全体に通じる
Aha! の瞬間って、大きなことではなく、実は小さな、
けれど死角になって気づけなかったところに潜んでいるなぁ、
そんな風に思うことはありませんか?
そして小さな真実と思えるものが、人生の姿勢を根底から変化させてしまう、
そんなこともご経験ないでしょうか?
視座、ビューポイント
私たちはみな、自分が物事を見ているポイント(視座)は
誰にとっても共通のものとどこかで思っています。
世の中にはいろいろな個性の人がいますよね。
それについては当たり前に(頭で)わかっているのに、
物事の解釈の際の視座については、
自分のものが世界共通の物差しで、マップのど真ん中だと
どこかで思い込んでいるのです。
簡単な当たり前に聞こえることですが、実は案外気づけないんですよね。
エゴの自分では自分がかけている眼鏡の色がわからない
なぜなら「自分の視座」から観ること、これは物心ついてからやっていることで
当たり前になり過ぎて、私たちのエゴは、自分が何をやっているのかに気づきがないんです。
自分のかけている眼鏡のレンズの色が何色かは、自分ではわからないです。
反面、人のかけているレンズの色はよくわかりますけれど。
自分の眼鏡のレンズはクリアな色だと思うから…
自分の視座を変えることなく物事を観ていると、
そこには善悪があるように思えます。
たとえば、自分にとって都合が悪い、嫌なことをする人は、
イコール悪い人、嫌な人です。
自分の視座からは「ありえない」し、
その人が見ている風景は、自分のものとは違うとは、なかなか思えないわけです。
それほどに、私たちは「私の」視座、「私の」ビューポイントにこだわって
疑問を持ちません。
人それぞれが違う視座で物事を捉えているということを、
便宜的に視座を地図の上に描いてみるイメージとして見てみたら、
地図上の違うところに、それぞれの点がばらばらに描かれるはずです。
ある人は右端に寄ったところ。
別のある人は左下に寄っている…
点が多く集まる場所があったとしても、一か所だけということはあり得ません。
視座は人それぞれ、幅がある
そのように実際は違うところから物事や世界を観ているのに、
同じものを共有しているという思い込み(みな、ホワイトのレンズ)があるために、
そこから判断、ジャッジメントが生じます。
固定された自分の視座から見て、自分が理解できない行動や思考をする人は、
悪い人、嫌な人、変な人という分類になるのです。
誰にでも共通の前提、それをそもそも共有していないということを実は忘れています。
普遍的なもの、人としてこうだよねというところを人類として共有しているとしても、
日々の中での価値観、物の見方というのは人それぞれです。
内面世界は個性に応じた人の数だけあり、共有できるものと、
できると思いつつ実は難しいものもあるということです。
これをつい忘れてしまうために、親しい中でも争いが起き誤解が生じたりします。
人それぞれの視座があるということが、本当には腑に落ちていないからです。
自分の視座は自分だけのもので、それは真ん中でもないのだということをつい忘れてしまうから。
人につい向いてしまうベクトルが争いを生む
人と意見が違う時、争いになった時、
原因はその人だと思っています。
自分はOKで変わる必要がなくて、原因は相手にあり、その人が変わればすべてうまく行く。
こんな思い込みに突き動かされて、不毛な争いが起きることって日常でありませんか?
夫婦げんかは犬も食わないと言いますけれど(笑)
けんかをしている当の本人たちは「自分が」「自分が」と
自分が見ているところから自分に集中していますが、
傍から観ると、お互いが同じレベルで堂々巡りをしているだけに見えます。
お互いの視座のベクトルが相手に向かって、相手を変えることに躍起です。
これだと理解は生まれませんし、言葉もすべって相手の胸に届きません。
エゴにとっての死角を理解すると…
小さなことが観えていない、それが起きていて、エゴにとっての死角が故なのです。
エゴの視点からだと、視座というものは固定され易いです。
「自分にとってどうか?」
これで固定され、柔軟性も失われます。
シフトと理解の触媒となってくれる大切な人たち
自分自身と、そして他者、近しい人と交流して行く際に、
視座の自在さを持ち相手の視座も理解できること、これをキープしたいです。
それはチャレンジも含むでしょうが、
人って鏡になってくれる人たちを通してしか見えないものがあります。
チャレンジの種であり、パラドックスのようですが
気づきをもたらしてくれる触媒でもあり、
それが共に生き関わって下さるご縁ある人たちです。
繊細な人の視座は固定化しがち
その中で繊細な気質のHSPも、自分の視座を大切にしつつ客観的に眺めて、
自分の視座ではないことも同時に知って行くこと、これが大切ですね。
繊細さがゆえに守りたい気持ちが大きくなり、自分にとっての危険なもの、
傷つけられる可能性のあるものを、知らず排除しがちになります。
そうすると、視座が固まってしまう(固定化)傾向も。
世界が狭まってしまいます。
そんな場合のレメディは、実際に関わる人とのやり取りで起こる感情を
まず浄化した後に、ゆっくり自分の視座へバリエーションとして取り入れたり、
あるいは本やブログ、動画を観ることから、たくさんの視座があることへの理解、
それぞれの見方があることを腑に落としてゆくこと。
自分自身への理解も深まり、外の世界との柔軟性も保たれ
一石二鳥だと思います。