考える側面、感じる側面
お茶の世界の学びと目覚め
最近『日日是好日』という本を読んでいます。
茶道にまつわる、著者が幸せと感じるあれこれがつづってあるもの。
その中に折々、著者の心の世界で起きている、
自分というものの拡大の経験(目覚め)が書いてあり興味深いです。
その中から少し引用して書きたい部分は、下の方に。
その本とシンクロしているなと感じた小さな感覚のことを、今回は書いてみます。
飾り気のない寛ぎ
心のオアシスのような、近くの村、全人口400人ほどというそこを、
車の往復を入れて小1時間、気ままに愛犬と回るのが、晴れた日のたまの日課。
さらに気が向いたら、去年できたカフェで眺めの良い景色を見ながら、
お茶を飲んだりも。
歩いていてゆきかう人も特にいなくて、ほんとうに田舎の小さな村。
でも、飾りっけのないそんなところをポツンと歩いていると、不思議に心がほどけます。
草がボーボーと生えた空き地の横や、猫がわがものに道を譲らない小道を通る中で、
目線が人間のそれから、植物や小動物の視線、全体に変わります。
小さな頃の自分の視線に戻るような。
頭に入る刺激も少ないので、自然と五感に よりフォーカスしてゆきます。
ベンチに座って、ただ心地よい太陽を感じながら、風が揺らす葉っぱの音や、
小鳥の鳴き声、温められた空気にある土の匂い、蜂の飛ぶ音など、
なんでもない刺激が感覚に入って来るのを感じます。
それは深いリラックスのしるし。
感じることはないがしろにされがち
いつもの無意識でいろいろ判断している部分が退いて、
やっと「感じる」部分に席を譲ってくれる機会です。
以前は「感じる部分」なんて、特に大切なものとも思いませんでした。
頭を使って学んだり、判断することにフォーカスしようとしていました。
これは私だけのことではなくて、現代に生きるほとんどの人が
成長する過程で社会で身に着ける傾向だと思います。
それを当たり前に思い、無意識になっています。
感じることの中にあるパワフルさ
心が本当にリラックスしている時は、判断やマインドから離れて、
安心感の中で感じる側面を開いています。
頭中心の価値観では特に大切でもない、小さなことを感じている状態。
実はそのなんでもない状態が心の平和とつながり、幸せな時間であることに、
なかなか気づけない時もあります。
けれど日常の現実的な部分の対応で疲れてしまう心にとって、
新鮮さ、柔軟さを取り戻させてくれるレメディのような機会です。
感じることで目に見えないものに触れてゆく
華々しくは全然ないけれど、心に響く豊かな時間とスペース。
それはまるで「目に見えないもの」の尊さに気づいて行くようなことです。
当たり前と思って見落としてしまう、小さな様々への愛おしさ。
それを感じられる空間や時間こそ、貴重なものだと思います。
感じられる時は、きゅーーと固まって狭まった状態から
受容の状態に変化して、その対象物とも一体化しています。
その状態を味わえることこそ、シンプルな幸せの機会。
普段、幸せになるためには〇〇が必要、△△も要るよね?と
思い込んでいるものが、ふっと軽やかに離れてゆきます。
そんな小さな私の至福時間を思いながら、著者の表現に響きます。
日日是好日からの引用
例えば、
「・・・雨の音にひたすら聴き入っていると、突然、部屋が消えたような気がした。
私はどしゃぶりの中にいた。雨を聴くうちに、やがて私が雨そのものになって、
先生の家の庭木に降っていた。・・・」
あるいは、
「雨の日は、雨を聴きなさい。心も体も、ここにいなさい。
あなたの五感を使って、今を一心に味わいなさい。そうすればわかるはずだ。
自由になる道は、いつでも今ここにある」
お点前をする時に、考え出すととたんに不安が増してわからなくなるけれど、
そんな時先生は「頭で考えずに手に聞いてごらんなさい」と言う・・・
頭でいろいろ考えるより、素直に感じるという状態に在る時に、
私たちはフルの存在として生きているのだと感じます。