toggle
2023-01-05

余白、ゆとり時間を持つ

明かりを照らすキャンドル

さなぎのように、ドロドロになって変質の時間?

季節が春から冬になるまで…

その間、家を遠く離れていたわけでも、
病気をしていたわけでも、
身近な者に大きな変化があったわけでもありません。

自分の中の一部を認識して、そして体験して、自分のものとして統合する。
その大きなサイクルの一コマ。

言葉にすると、浮世離れした感じになるのですが、
そういったこととはむしろ正反対の、日常にしっかり関わるということを
やってきた期間でした。

今まで「これは私の分野じゃないから」と、逃げてきた部分。軽視してきた部分。
そこを無視できず、関わったらやはり、取り込まれ感もありました。

そういう分野は、逃げていると実はいつまでも怖い。

でもそこに半強制にでも入って行くと、実態が見えるに従い、
実像と内なるイメージのすり合わせも起きてくるので、
案外取り組めばできるじゃないの…
そういう自信のようなものも生まれます。

逃げてきた部分は、シンプルにいえば、
今まで自分の一部として認めたくなかったもの。
その総合です。

特に出来事があった、劇的な何かがあったではないけれど、
ぼんやりと内側にずっと巣くっていたような、
そして同時に、『非・自分』という枠に入れて分類して来たもの。

非二元って、そもそもどういうことなのかな?

私は一時、イギリスのルパート・スパイラさんのお話会に参加したり、
非二元というものを理解したくて、本を読んだり意識で探求したり、
頭で捉えたいと思っていました。

それがいまも止んだということではないのですが、
実際、非二元を自分の現人生、現在の日常で体験するとしたら?
どういうことなのか…

この観点で観ると、

区分けしている、「自分」「自分じゃない」という枠そのものの定義。
その刷新も当然入って来ます。

そもそも「自分」って何?という話になりますけれど。

自我にとっての慣れ親しんでいないものとの遭遇

「自分」を、慣れ親しんだ信念構造内で構築された活動体。
このように見てみると、

「慣れ親しんでいない」ものとの遭遇、関わりは、自分を操る自我にとっては、
恐ろしく、また不快なものです。

それを、求めたわけでもないけれど、知らずやっていたこの数か月。
といって、本当に特別なこともなく過ぎた一年なのですけれどね。

内側的な風景としては、洗濯機、ドイツの強力なドラム式洗濯機でガラガラ回される、
そんな感じでした。

変容の波は内側から起きて変化を起こしてゆく

その変容の中で、日常の中に種として入ってきたものがあり、
新しいヒーリングモダリティも一つ。

自分の日常での促しプラス、実際直にエネルギーとしても
そのモダリティを通してたくさん変容を受け取りました。

そして、自分の中の枠組みの中で、それなりに安定して収まっていたものが、
それ自体で変質、編成し直してゆくような、有機的、
そしてとても自然な時間を過ごしてきました。

いまもそれは継続中ですが、

けれど少なくても「非・自分」として弾かれていたもの、
反対に「自分」と同化して疑わなかったもの、

それらの区分けがカオスをもたらしながら解けて行きました。
そして、より今の自分に合ったものへと編成、構築されて行く、
その過程を経験してきた(いる)ようです。

変容の波は世界でもうねりを増し…

芋虫からさなぎになって、その虫はいったん体をドロドロに溶かし、
そこに必要な期間籠り、そして羽が伸び、そして準備ができると
飛び立つためにさなぎを破ります。

世界で今起きているいろいろなカオス、破壊と再生の準備も、
大きな目から観たら、私たち人間ヴァージョンの視点とは、違うものとなるのでしょう。

私たちはこれらの経験を通して、一つ、

『視点を自在に変えて、複眼的に物事をよりニュートラルに観る』ということ。

これも促されている気がします。

そして、そのためには、『真実』を見分ける目が必要だなと、ひしひしと思います。

『真実』を観る目は本来私たちに備わっている

そして、真実を見分ける目は獲得するものではなく、すでに私たちの奥に備わっている。

蝶たちだって、ちゃんと羽を伸ばし羽ばたきます。
虫からさなぎ、蝶という変体の時期を超えてゆきます。

自然界もたいていは、大きなサイクルで動いていて、バランスが取れています。

獲得というより、本来在ったものを呼び起こすということ。

それを自然にしてゆくためには、身も心も柔らかく在ることが欠かせないな。
この2023年の年の始めに、そんなことを思っています。

今年もどうぞよろしくお願いします☆

関連記事