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2023-01-18

実は心を感じたく、ない?のかも…

感情

「日々、ていねいに、感情を感じ取れているかなぁ…」と思いつつ、

でも、いつも振り回されているように思う、感情の波。

これがなかったら…

「人生生きるのが楽でシンプルで良いのでは?」

時にこんな風に思う方、いらっしゃいませんか?

日常で感じることって、うれしい、楽しいことばかりじゃなく、
悲しいこと、苦しいこと、怒りたくなること、みじめになること…
これもありますよね。

正直にいえば、後者は積極的に感じたいとは思わないもの。

でも、積極的に感じたいと思っていなくても、
その波がかかってくることは、生きていて当然あります。

そしてその際の影響や威力が、小さな幸せを支える優しさの感情より
パワーで言ったらより強いようにも思えます。

「感じること」「感情」にまつわる さまざまな思い

悲しいなと思っている時、

自分が嫌いになったり、存在がちっぽけに思えて生きていることの意義を疑ったり、
心はあてどもなくさまよって苦しくなります。

怒りもそう。
怒りはちゃんと使えば、創造性の源となってくれるものですが、
けれど上手に使えず、持て余してしまうことも多い。
特に女性はそうです。

ちゃんと感情を感じたり、Being を大切に生きるより、

とりあえず心地よくない感情を、スパムホルダーに入れて忘れたり、
分かりやすい目的に向かわせてくれるDoing へ、走り込んでしまうことも多い私たち。
男性もそういう傾向が強いかもしれません。

そうすることで、第一次的な感情と言われる怒りの段階から、深みを覗くこともなく、
その奥に実はある、悲しさ、寂しさ、みじめさを感じなくてもすみます。

「感じる」側面は、人生の喜びを感じる入り口。

感情はそこを通して、本当の自分と出会える場所でもあります。

感覚を通して受け取ったものを、存在のなかで変換して、ハートに届ける。
感じる側面にはそんな機能もあります。

ハートと相性が良いのは、Being を大切にしたあり方や長期的な幸せ。
じんわりとした生きる上での栄養や、感じることを通しての喜びも届けてくれます。

私たちの深いところにある「感じる」ことへの恐れ

そんな喜びとつながる側面、そして恐れを感じる側面も同時にあります。

恐れというのは、自分が対処できないのではないか?と思うものに対して出てきます。

もしかしたら、内に抱えた本当の心、感情が出てしまったら、困ることがあるのかな?
そして、もしあるとしたら、それはどんなこと?

具体的な恐れとしては…

その一つは、今の一時的に安定した状態、関係を壊してしまうのでは?ということです。

怒り含めオーセンティックな感情はとてもパワフルですから、
それを上手に使えなくて、圧倒されて人生や日常が大変なことになる。
そう思うマインドの不安も理解できます。

ちゃんと感じて、心に沿ってより自由である状態を自分に許してしまうと、
「(社会的に)適切な状態を保つ」、そのためのコントロールが外れてしまい、
感情に翻弄され、間違った方向へ行ってしまうのでは…という不安です。

「感じること」が開けてしまうパンドラの箱?

そしてもう一つは、ちゃんと「感じて」しまうと、
自分にさえもごまかしてきた本当の心、心にあいた穴に気づいてしまうのでは?
この恐れもあります。

気楽に物事の簡単で良いところだけを見て生きていければ、
それで十分良いじゃないの?とも思う気持ちの傍ら、

深いところにある心と、一緒になりたいという望みも私たちにはあります。

その間で揺れながら、あるいはバランスを取りながら、
目の前に出される題材(出来事)に自分なりに対処しながら、
個々の人生を私たちは生きています。

揺れ惑いながら向かってゆくところ

どんな風に揺れ動くのか、これもまたその人なりの人生の色、中味を決めてゆきます。

一般的に私も含めて、多分人間としては目先の苦しさをなるべく避けて、
感じる側面ということでも波が大きくない、平坦で楽な道を行きたいと思うわけですが、

心の深いところへ到達するものは、感情の波で洗い流されたその後の、昇華されたもの。
それもあってということもあります。

深い心の昇華のイメージとしては、真珠

真珠は美しいものとして女性にも人気ですが、でも実はあの美しさは
貝の内部が異物で傷つけられたところを修復しようとして、そこから少しずつ育ったもの。

ですので、内側の苦しみとそれを昇華した後の美しさ、真珠はその象徴でもあります。

清らかで内側からの柔らかな光を放つ様子が、やはり魅力ですね。

深みを汲むことと、ささやかな小さな喜び、その両方を

私たちの魂の喜びは、きっとそんな深みから得られた昇華した後のもの。

偽装されたギフト、その価値をやっと理解して開けることができた時のような。
最初は苦しさを、悲しさをもたらすものだったものが、実は後で自分のギフトに変わっている。
それが偽装されたギフトです。

また同時に、矛盾するようですが、日常の何気ないふとした小さなものを通した喜び。
そのシンプルな喜びを味わえる至福、人生には両方があると思います。

ですので、感情を心地よい、そうでないと急いで分類せずに、
すべてをしっかり感じることができたなら、

自然な変容をそれ自体で遂げて、少し時を経たタイミングで美しいものへと熟成し、
心に在り続けるのかなと思います。

強い感情を恐れて、それは感じたくないと防衛して生きるより、
湧いて来る感情もちゃんと認めて、自分の心の揺れもそのまま受け入れ、
柔らかく人生と関わることで、本当の宝ものを掘り当てる確率は大きそうですね。

あなたはどんな風に思いますか?

 

 

★(他の記事:「感じる」こと)

 

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